松岡町南部、吉野ヶ岳付近に端を発する川は、人々の暮らしとどのようにかかわってきたのだろうか。川と暮らすまち。シリーズ2回目は、松岡町南部を流れる「荒川」をとりあげよう。


光の芸術が繰り広げられる川
 6月の終わり、成育した稲穂で埋め尽くされた田園地帯に、沈みかけた太陽が鮮やかなオレンジの光を落としている。
 場所は松岡町の南部、吉野地区。あたりに夕闇が立ち込める午後7時過ぎ、田園地帯の一角にある多目的集会所にたくさんの親子連れが集まってきた。数は100人近い。懐中電灯や水筒を肩に下げ、手には虫取り用のタモなどをもっている。
 3年ほど前からここで行われている「ほたる観察会」にやってきたのだ。
 舞台は、集会所のすぐ目の前を流れる荒川の上流。幅2メートルほどの川沿いにあぜ道や杉林が連なっている。その一帯に、今ではほとんど見られなくなったゲンジボタルやヘイケボタルの生息地帯がある。
 「ほたる観察を通して自然を守る大切さを子どもたちに知ってもらい、親子間の交流を図る」ことを目的に、荒川の自然を守る会の人たちが中心になって企画した。
 午後8時、すっかり暗くなった川べりを流れに沿ってゆっくり歩く。荒川は静かな音を立てている。やがて水草の闇に注意深く目を凝らすと、小さな明かりがほのかに見えた。
 「あっ、ほたるや!いる、いる」
 子どもたちの歓声が暗闇に響きわたる。さらに川を下ると、今度は水面の上を2〜3秒おきに明かりを点滅させたほたるが、ふわり、ふわりと飛んでいく。
 「今年はね、これでも少ない方です。毎年、5月下旬から6月のはじめごろが一番多いですね。ほたるの幼虫は、川にいるカワニナ(巻き貝の一種)を食べて成長します。荒川には、そのカワニナの養分となる藻がたくさんあるんですよ」
 先導役で、ほたる観察会の発案者でもある松岡町教育委員会の山口真さんは、そう説明した。
 きれいな水が流れ、カワニナの養分となる藻があって、農薬などの侵されていない、ありのままの自然がある。ほたるは、そんなところにしか生息しない。山口さんの話を聞きながら、参加者たちは川沿いから田んぼ道を歩き、やがて杉林にさしかかった。
 するとどうだろう。目の前に現れた光景に、子どもたちは一斉に驚きの声を上げた。高さ7〜10メートルはある杉の木の間を、無数のほたるが群舞しているのだ。枝の闇から何百という光りがともり、幻想的な芸術を繰り広げている。
 「クリスマスツリーみたいやね」
 その声に誰ともなく頷いた。大人も子どもも、ただじっと魅入っている。  誰もが皆、童心に帰っているのだろうか。空を見上げれば、満天の星。一瞬、その星が舞い降りたのかと見間違うほど、それは実に美しい光景だった。

「むかしばなし」に出てくる風景
 ほたるが群舞する川、荒川。現代人に心の癒しを投げかけてくれるその川は、上流と下流ではいささか趣が違う一面をもっている。
 福井平野の最低部を流れる足羽川の支流、荒川は、むかしは名前の通りよく氾濫したらしい。全長約14.8キロメートル。松岡町南部、吉野ヶ岳付近に水源を発し、福井市原目町から西流して城東、勝見を通り、木田橋付近で足羽川に合流する。上流は吉野川、下流は勝見川とも呼ばれ、流域には吉野、湯谷など現在、7集落があり、250世帯で約1000人が暮らしている。
 福井医科大学しらゆり会理事長で、元・松岡町長の土肥春夫さんは、先祖代々吉野に自宅を構える地元の語り部だ。
 「荒川は集落の中を流れていて、つい最近まで家の前を40センチぐらいのイワナがしょっ中、泳いでいました。水源に近いから水温が低く、きれいなんでしょうね。それでも昔は雨になると、よく氾濫したらしいですよ。そのため何度か治山・治水工事が行われています。大きな洪水がなくなったのは、昭和50年代になってからだと思います。」
 荒川は、上流に住む人たちの生活と密接にかかわってきた。とくに、「井戸がなく、水道もなく、人々は川の水で生活してきた」(土肥さん)吉野地区にとって、荒川はまさに「生命の川」だった。
 上流の一番上にあたる上吉野集落で生まれ育ち、上吉野に嫁いだという吉元幸子さんは、生っ粋の「荒川育ち」。その吉元さんが話しを裏付ける。
 「むかしから飲み水、風呂、洗濯すべて川の水でした。夏になると、家の近くで荒川をせきとめて水あびしたり、サワガニをとって遊んだり。水が冷たいから長くつかっていると体が冷えてくる。すると、田んぼの中につかるんです、水があたたかいから。田んぼの畦草刈りは私ら子どもの仕事やった。荒川は、私らには遊び場であり、生活の場でしたね。両親は外に働きに出て、ばあちゃんは前の川で洗濯をし、じいちゃんは山へ芝刈りに行く。むかしのままの暮らしはまだ残っています。」
 家の前の洗い場で米をとぎ、野菜を洗い、洗濯をする。むかしばなしに出てくるような風景が、今もところどころに見られる。

吉野ヶ岳からあふれ出る水
 荒川の流れは、上流に行けばいくぼど早くなる。上吉野から川に沿って進むと、道は荒川の源流にあたる吉野ヶ岳に向かって続いていく。
 「よしのがだけ」−。松岡町と永平寺の境にあり、別名蔵王山とも呼ばれる越前五山の一つである。標高は54メートル。蔵王山の由来は、開山した泰澄大師が吉野蔵王権現を祀ったことからつけられたという。山頂には、天正2年(1574)の一向一揆で焼失したと伝えられる蔵王権現の社殿が再建され、十一面観音と共に祀られている。
 ゆるやかな坂道をのぼると、その蔵王大権現の参道に出る。樹齢三百年はあろうか。大きな杉の木が鳥居に覆いかぶさるように何本も立っている。スギゴケに敷きつめられた石段。すぐ横を荒川の水が、勢いよく流れ落ちる。
 吉元さんと同様に上吉野に住む吉田ハルイさんは、「むかしは大権現のあたりまで熊がよく出たんです」と話していた。かつて、このあたりの集落では山べりに家を立てていたそうで、「家のすぐ近くにあった栗の木やタケノコを求めて熊が出没した」のも頷ける。それほど深い緑が山道にせり出し、うっそうとした林を形成している。集落とすぐ目と鼻の先に広がる杉や桧の群生地。そして荒川の水。自然が奏でる音は、時を超えて何かを語りかけてくるようだ。
 先祖から数えて40代目にあたる当主、先の土肥さんは集落の歴史についてこうしめくくる。
「400年ほど前の一向一揆で、浄土真宗の高田派が本願寺派に追われ、上吉野地区の山に逃れたらしい。彼らは自分たちの身を守るため山と山の間に家を建て、自給自足でひっそりと暮らした。でも、川の水が多いせいか田んぼは湿田になり、米づくりにはあまり向かなかったんだと思います。長い年月を経て土地改良や治山、治水事業が進み、今は穀倉地帯に変わりましたが、それまでは炭を焼き、畑を耕すのがここでは普通の生活でした。もう炭焼き職人はいないけど、山の水だけは昔と何も変わりません。荒川の水があるおかげで、上吉野や湯谷の集落一帯が生き長らえてこられたんですよ」
 吉野ヶ岳からあふれ出る荒川の水。松岡町南部の田園地帯を流れる生命の川として、荒川は今も人びとの暮らしの中に行き続けている。

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