丸岡町の豊原、田屋地区を流れる井勝川。その水源は、一説には霊峰白山を仰ぐ霊場として栄えた豊原寺跡へ通じていると言う。
湧水から紫雲が立ちのぼるとき、人々は長い冬の訪れを知る。
冬、深い雪に閉ざされる集落は、川の水とどのようにかかわってきたのか。
『川と暮らすまち』3回目は、歴史と神秘に包まれた井勝川をとりあげよう。


神秘の泉が時を越えて流れ込む
 福井と石川の県境にほど近い丸岡町の山間部は、冬、深い雪に閉ざされる。
 丸岡市街から北陸自動車道丸岡インター付近に向かって約2キロメートル、高速道路を挟んでちょうど段々畑を登るように白一色になった道を走る。車が背後の山々に近づくころ「田屋」という小さな集落にさしかかった。平地より、いくぶん雪が深い。真っ白に埋もれた田園が目の前に広がっている。その間を縫うように川が流れている。川というより、幅3メートルぐらいの用水に近い感じだ。
 名前を「五味川」といい、昭和30年頃に護岸工事が行われ、田屋、与河などの集落を流れる。しかし、それまで集落の生活を支えてきたのは、上流の豊原地区を水源とする「井勝川」だった。
 「井勝川は五味川の上流にあたる川です。水源は『豊原三千坊』言うて、むかし上流の豊原地区にあった豊原寺という大きなお寺でね。そこの閼伽井といわれる池なんです。閼伽井と言うのは仏様に供える香水のことですよ。田屋は豊原寺の門前町として栄えたところで、私ら子供のころ、ここから流れ出る水は延命の水、薬師の水と言ってたいそう縁起のいい水だと教えられたもんでした。」
 そう説明してくれたのは、むかしから田屋集落で農業を営む小角孝義さん(71歳)だ。  資料によれば、豊原寺というのは大宝2年(702年)に泰澄大師によって開かれたと伝えられる。いわゆる白山信仰を中心とする霊場として栄え、福井では平泉寺とともに一大勢力を誇った寺院だという。織田信長の越前征伐により全山焼失したとされ、その後、昭和54年の発掘調査で、隆盛を誇った当時の一端が姿を現し、「幻の寺」としていまなお謎の解明が急がれているそうだ。
 「閼伽井」は、その豊原寺跡地の中にある「塔ノ池」とされており、「薬師の水」は今も絶えること無くこんこんと湧き出ている。その水が、まぎれもなく井勝川に注いでいるのである。
 水源地は、田屋からさらに2キロほど山奥に入る。残念ながら、冬場は深い雪に閉ざされ、ほとんど足を踏み入れることができない。それでも川の流れに沿って、静寂に包まれた森の中を抜けると、高さ十数メートルもの「滝」が勢いよく流れ落ちていた。神秘の泉が、わずか数百メートル先で豊富な水量を誇る滝になって、かつての集落から流れ落ちて行く。
 底冷えのする深山幽谷の地。清列な水は、時を越えて自然のすべてに生命を注ぎ込んでいるのだ。
今も豊かな水の恩恵を受ける
 それにしても薬師の水を水源としてきた井勝川は、人びとの暮らしとどのようにかかわってきたのだろうか。豊原寺跡で小さなキャンプ場を営む、小林善夫さんが振り返る。
 「私らは、いわゆる三八豪雪で集落が埋もれる以前まで豊原に住んどった。丸岡から一里はあるから生活は不便やったけど、水に困ることはまずなかったの。谷や岩の間など、いたるところから水が染み出してくる。生活水、洗濯、風呂、使うのはみんな川の水やった。風呂は五右衛門風呂です。薪を焚いて風呂釜を下からあぶる、あれです。冬の暮らし?藁仕事が多かった。草履やムシロ、縄を縫うために土間で藁を打ったり。藁は、秋の稲刈りが終わったあとの稲を干して使う。冬に備えて倉庫に運ぶのは子どもの役割やった。食べ物は、冬が来る前に縁の下にサツマイモなどを入れて保存する。縁の下に米の籾殻を入れておくと 『天然の貯蔵庫』 になるんです。あと冬の仕事といえば、機織りか炭焼きか、どこの家もそんなもんじゃなかったかなあ」
 水といえば、寒の入りになると凍ることがしばしばある。だが、小林さんは「心配なとき水はいつも出しっ放しにしておけば、まず凍らない」という。湧水は、冬あまり冷たさを感じない、とも。湧水を出し放しにしておけること自体、今は考えられない時代である。だが、むかしは「谷や岩から水を引けない家は、井戸を掘って使っていた」ぐらいだから井勝川の水が枯れることはまずなかったようだ。
 さすがに現在は、谷水を引いたり、井戸をもっている家は少なくなったが、小林さんのキャンプ揚では山の水をそのまま使うなど、今も井勝川の豊かな水の恩恵を受けている。
人びとの暮らしと生命を支える川
 冬の積雪がゆうに1メートルは越えたという豊原では、学校までの約3キロメートルの道のりを歩くのが至難の技だった。まず親が先に歩いて道をつくり、次に上級生が行き、そのあとを下級生が、藁靴を履いて歩いた。また、数少ない冬の食糧を賄うために、米や野菜がときどき「物々交換」にまわることもあったという。
 「三国方面から魚の行商がよくやってきました。冬は、なかなか魚なんて食べられませんから重宝がられましたよ。行商の人たちとは、ほとんど米や野菜と物々交換するんです。井勝川で洗った野菜が、魚に変わる。そんなやりとりも、今思えば豊原の冬の風物詩みたいなものでした」
 そう目を細めるのは、先の小林さんと同じように、三八豪雪で豊原から井勝川下流の田屋に移り住んだ豊原春雄さん(五九歳)だ。
 かつての集落こそ今はないが、やはり水の恩恵は忘れられないという一人。ものの記録によれば、かつて丸岡藩主が江戸幕府に酒やそうめんなどを献上した話があるそうだ。  豊原さんは「閼伽井の水は、天然ミネラルと弱アルカリの軟水といわれていますから、案外酒づくりに向いていたのかもしれません」と推測する。
 真偽のほどは定かではないが、井勝川の水源にあたる塔ノ池には「今でも茶の湯の師範が水を汲みに来ている」という地元の証言もあるほど、水のうまさは今も変わっていない。  人びとの井勝川、そして水への思いは、形は変わってもしっかり引き継がれているようだ。
 毎年3月には、田屋、与河、畑中、などの集落の人びとが、井勝川を塞き止めてきれいに洗浄する作業を続けている。「井勝川の水がなかったら住民は生きていけない」との思いが根底にあるようで、先の小角さんら住民が中心となって川を守っている。
 今から二十数年前、福井市内から田屋に引っ越してさたという小林さん夫妻は、川の水についてこう強調する。
 「水がきれいなところだと思って引っ越してきたんです。老後は自然があって、水がいいところがいいなと思って。越してきてから主人の身体の調子がよくなってね。私たちは環境のせいかなと思っているんですよ。毎年、夏になると福井市内にいる三人の子どもとその孫たちがホタルを見に来るんです。自然があって、水がいいからホタルもたくさんいるんでしょう。ええ、ここは終(つい)の棲家だと思っています」
 今から約千三百年ほど前、泰澄大師が開いたとされる豊原寺。その面影はもう残っていない。
 しかし、豊原寺縁起によれば、越知山から東北の方角に「紫雲がたなびいているところをみつけ天女の導きによって霊泉に至る」とあるそうだ。その紫雲たなびく霊泉こそ、閼伽井にほかならない。
 時を越えて、人びとの暮らしを見守ってきた井勝川。その水から紫雲がたちあがるとき、人びとは長い冬の訪れを知る。


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