二〇〇三年九月一三日、松岡町の空には筋雲が流れ、さわやかに晴れ上がっていた。まちの中心部を包み込むように黄金色の田園地帯が広がっている。爽風が吹きぬけるたびに、たわわに実った稲穂がささやくような音を奏でていく。
 そんな田んぼの一角に、やや黒ずんだ稲穂が頭を垂れて並んでいる。朝九時を過ぎると、人が次つぎとやってくる。この日、待ちに待った「古代米」の収穫が行われた。

 古代米。古代の日本人が食べていた赤米、黒米のことである。稲の刈り取りを行ったのは「越の国里づくりの会」のメンバー。毎年一〇月初旬に行われるイベント「越の国伝説」に集まった人たちに古代米を振舞うため、今年、休耕田を使って試験的に実施した。
「機械を使わず、昔ながらの方法で実際にやってみることでメンバーの意識が共有できるんじゃないかと考えましてね。苗を植えてからは『きょうは実がついた』とか『順調に育ってる』とかメンバー同士が自然と古代米の話題で盛り上がるんです。予想以上の反響でした」
 そう振り返るのは会長の沢崎喜裕さん。越の国里づくりの会は、一〇年前に古墳のまち・松岡を全国にアピールするイベントがきっかけになって結成されたまちおこし組織。正式な発足は平成一三年だが、もともと考古学が好きな人や町内の若手グループなど有志が集まって、古墳の清掃や草刈りなど年間通して様々な活動を行ってきた。
 古代米の収穫もその一環で、この日は古代の装束に身を包んだ若者が田んぼの中で太鼓をたたき、それを合図に会のメンバー十数人を中心に、親子連れや若い女性たちが慣れない手つきで稲を一本一本刈り取った。

「越の国」とは、古代における北陸地方をさす名称。日本書紀では「越」、古事記では「高志」と書かれ、五、六世紀には能登まで、七世紀になると新潟あたりまでをそう呼んだ。少なくとも一五〇〇年以上前、松岡町周辺一帯は越の国の中心として時の権力者たちが拠点にした重要な地域だった。
 そうした古代へのロマンや興味、関心が、先の沢崎さんたちの活動を支える大きな原動力になっている。そして古代の歴史をもっと知ろうという意識は、松岡町の子どもたちの間にも少なからず浸透している。
 今夏、松岡中学校では選択社会を受け持つ先生と生徒たち十数名が、初めて「野焼き」に挑戦した。小学校のころから古墳発掘に慣れ親しんできた生徒たちは、自分たちがこしらえた縄文土器を火の中に入れて焼いた。
 古代米の収穫や野焼きなど、越の国里づくりの会のメンバーとともに数々のイベントを仕掛けてきた松岡町教育委員会文化財調査員の松井政信さんは期待をこめる。
 「古墳を発掘するだけじゃなくて、実際に古代米を味わったり、野焼きや収穫を自分でやってみることでまた新たな興味が湧いてくる。そういう体験の積み重ねが、まちの歴史を子どもたちの目線で理解できる近道じゃないかと思っています」
 生徒たちは土器が焼ける様子を見ながら、大きな土器のひとつに古代米を入れて炊き、器の出来上がりと一緒に味わった。
 今からおよそ二五〇〇年以上前に日本に伝わったとされる米づくり。この夏、古代米の収穫と実際に炊き上げた米を口にして、松岡町の人びとはまたひとつ古代人の感覚に近づいたのである。

 イベントを通した古代体験に取り組んでいるのは、実は松岡町だけではない。というより、そもそもの原点はお隣り丸岡町で平成元年から一〇年間にわたって続けられた「越まほろば物語」という一大イベントが発端だといえよう。
 越まほろば物語とは、丸岡町、松岡町、永平寺町の三町にまたがる古墳群を造営した先祖を誇りとし、古墳に象徴される古代文化にまつわる地域おこしを全国発信しようという試み。丸岡町の壮年団をはじめ行政と町民が一体となって始められた。
 平成元年から一〇年まで毎年、古代の儀式再現はじめ、コンサートや舞踊劇、大王祭、石運び、野焼き、六文字焼き、著名人や考古学の専門家を招いてのシンポジウムなど、多彩な催し物や事業が行われ、越の国まほろば物語を全国にアピールした。
 このイベントを行政サイドから見守ってきた一人、丸岡町教育委員会生涯学習推進室長の金元賢治さんはその役割を評価する。
「越の国は、今から二〇数年前まで全国的にあまり知られていなかったんです。でも実際には北陸最大級とされる六呂瀬山古墳群をはじめ、三世紀から七世紀にかけての前方後円墳や古墳が数多く発見されていることから、都とのかかわり、中国・朝鮮など大陸との交流があったことも早くからわかっていました。そうした越の国の存在や歴史が、イベントを通して全国に知られるようになったことが一番の功績でしょう。」
 まほろばの舞台となったのは、福井県坂井郡丸岡町鳴鹿地区。まほろばとは、「真ん中のすぐれた良いところ」という意味だが、そういえば鳴鹿周辺は、今でも奥越から流れ込む九頭竜川が山間から一気に広がり、背後には白山連峰、北に六呂瀬山古墳群、南に松岡町・永平寺町の手繰ヶ城山古墳、二本松山古墳などを望むことができる。
 遠く古墳時代に思いを馳せれば、鳴鹿周辺は稲作を支える重要な水源をもち、祖先はここで家を建て、狩りをし、田を起こした。それがひいては大王国、越の国へと発展し、権力者たちが支配した拠点であったと推測できるのだ。
 ちなみに、越まほろば物語の一〇年間にわたる活動の成果として、丸岡町の六呂瀬山古墳群が「国史跡」に指定され、鳴鹿大堰を中心とした九頭竜川流域一帯が、福井県の古代史跡ゾーンとして全国に知られるまでになっている。

 ところで、地域おこしのきっかけになった丸岡、松岡の古墳群には、どのようなものがあるのだろうか。
 そのひとつ、丸岡町の六呂瀬山古墳群を訪ねた。国史跡と書かれた看板から約二百メートルはあろうかという山頂に向かって歩く。うっそうと茂る木々の中を抜け、少し小高い山を登りきると一気に視界が開ける。その場所が北陸最大級の規模を誇る、全長一四〇メートルの前方後円墳なのだ。
 眼下を九頭竜川が流れ、一面に福井平野が広がり、丸岡、松岡、永平寺にいたる周辺一帯を見下ろすことができる。まほろばの国を支配した大王の墓というのもうなずける眺望だ。さらに九頭竜川をはさんで向いの山頂には、同じく国史跡になっている手繰ヶ城山古墳、乃木山古墳、鳥越山古墳、そして発掘調査中(二〇〇三年九月現在)の石舟山古墳などが連なっている。
 一体いつごろの、どういう人たちの墓だったのか。六呂瀬山古墳は、立地や規模、内容から想定して四世紀後半から五世紀前半にかけてつくられた越の国の広域大首長のものと見られている。対して手繰ヶ城山古墳は、それに続く規模で、四世紀中ごろ。そのほか、乃木山は三世紀後半、二本松山は五世紀後半というようにいずれも三世紀から七世紀にかけて作られたものが多い。
 松岡町の古墳について、松岡町教育委員会に勤務して以来、ずっと古墳の発掘調査に携わってきた先の松井さんは分析する。
「どの古墳が誰のものかなどはっきりしたことはまだわかっていませんが、規模や発掘されたものなどから推測して、おそらく時の権力者で、かなり位の高い人たちの墓だったことは間違いないでしょう。二本松山古墳からは、大陸の王のものと酷似した渡金天冠なども出土しており、大陸との関係もうかがえますし、実際、山頂に古墳をつくったのも朝鮮半島で見られるものとよく似ているんですよ」

 古墳の発掘は、古代ロマンとの出会いであり、まさに宝探しにも似たワクワク、ドキドキ感だといわれる。しかし日々、現場で作業する人たちにとってはいつもそんな感慨に浸っているわけではない。石川県金沢市出身で大学院で考古学を専攻、その後、松岡町教育委員会の嘱託として勤務する浅野良治さんはこう代弁する。
「埴輪や土器を傷つけないようにこつこつ、丁寧に、時間をかけて発掘します。ときどき、土器の破片を掘り当てると『やった!』と思うこともありますが、どちらかといえば気長に土と向き合う、地道な仕事ですよ」
 それでも発掘調査によって明らかになっていく歴史の一つひとつが、現在や未来にとってどれほど貴重な資料になるかは計り知れない。
 越の国里づくりの会会長として七年以上活動してきた先の沢崎さんは、古墳の遺跡発掘の価値についてこうしめくくる。
「たとえば、毎年行っている古代フェスティバルに、沖縄のエイサーという民族舞踊や韓国の民族舞踊を呼んだら、それがきっかけでお互い情報交換や親睦を深める関係になっていく。私たちが越の国の歴史を発見することで、他の地域の人たちと新しいネットワークができていくのが何よりうれしい。私自身はそれが地域おこしの原点であり、古墳や遺跡発掘の意義にもつながっているんじゃないかと思います」
 古墳のまちを全国に知らしめる。そこから始まった活動は、今、丸岡町、松岡町の人たちに、新たなムーブメントを巻きおこしつつある。

手繰ヶ城山古墳へは、駐車場から往復約1kmのハイキングコースとなっています。
また、乃木山古墳、石舟山古墳、鳥越山古墳、二本松山古墳へは、松岡公園(春日山古墳)を起点とした往復約3kmのハイキングコースとなっています。



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