地域風土へのいざない
夏親子二代、三代で五穀豊穣を祈願する。
時を越えて培われた家族の絆が、
豊かな水と実りを支えている。

九頭竜川の流域には、自然や水、その土地特有の慣習文化、風物詩などが数多く残されている。
地域の風土にスポットを当てながら、まちと人びとの暮らしをクローズアップする旅。
今回は、丸岡町い伝わる郷土芸能を取り上げよう。






  丸岡町内でも、1、2といわれる大きな在所、北横地地区。ここには、地域の守り神として長い歴史を刻む「布久漏神社」がある。その神社の由緒に、丸岡町の歴史についてこんなふうに書かれている。
 「いまから一千年以上もはるか昔、福井県が「越の国」といわれた時代、男大迹皇子、のちの継体天皇が、坂ない(坂井郡、吉田郡、福井市の一部)に在った。そのころの福井平野は大きな湖沼であった。九頭竜川、日野川、足羽川が流れ、上流から運ばれた土砂によって河川の川底が上がり、洪水の度に水害に見舞われた土地だった。継体天皇はそれを憂い、現在の三国の河口を切り開き、湖沼の水を日本海に流出させ、その跡地に灌漑の便を図りながら一大田園地帯を築いた。
 時が変わって、継体天皇の19番目の皇女、円媛命は布久漏の地にあって、この地一帯の水利が悪く、五穀の稔がままならぬことを憂いた。そんなある日、東南の山奥から一頭の鹿が里に下りてきて、一声大きく鳴いた。と思うと、布久漏の地に来てしばらく憩い、餌をあさったあと、本荘方面に向かって駆けていき、忽然と姿を消した。その鹿の鳴いた場所が、現在の『鳴鹿』の地名の起こりであり、鹿の通過した跡を調べて、掘って用水路にしたのが現在の『十郷用水』の起源だとされている」
 奇しくも、現在の「鳴鹿」には九頭竜川の可動堰「鳴鹿大堰」があり、ここから灌漑用水を取水しているのが「十郷用水」である。すなわち、一千年を越える昔から洪水や水害に苦しめられてきた人々の長い歴史が、現在に通ずる灌漑用水と、五穀豊穣の命脈を張り巡らせる原動力になったともいえよう。
 五穀豊穣を祈願してきた土地の人びとの中には、実りにつながる水脈づくりに尽力した伝統が今もしっかり残っている。それが実は、丸岡町に伝わる郷土芸能の中にも色濃く投影されているのだ。




 丸岡町北横地に伝わる「表児の米(ひょうごのこめ)」(県指定無形文化財)はその代表的な神事のひとつ。先の布久漏神社に伝わる秋の例祭で毎年9月14、15の両日、公民館と神社の境内で行う。
 十郷用水の恩恵を受ける流域各地の農民たちが五穀豊穣、感謝の意を表わす目的ではじめられたとされ、その年の初穂を賽米し、集まった米を搗き、蒸して神社に供えて、そのおさがりを参拝者に分け与えたのが原形という。正確な歴史は定かではないが、少なくとも江戸時代には現在のような形として行っていたと、1804年に完稿した「古今類聚越前国誌巻」の四に記されている。
 「私ら子どものころは、親から400年ぐらい前から続いていると聞かされました。十郷用水のおかげで毎年、米がとれるし、水害にもならない。そう言うて教えられたもんじゃった。表児の米が近づくと、大人も子どもも落ち着かなくなる。当日は親戚縁者が集まって、朝から押し寿司やご馳走が並んでそらもうどこの家もにぎやかなもんですわ」
 そう言って目を細めるのは「表児の米」保存会長の中島保信さんだ。表児の米は、毎年1〜4区の人たちが持ち回りで行い、10年ほど前からは小学五、六年生を対象に、子どもたちによる表児の米も行われている。
 初日は、集合太鼓を合図に若衆が神社に整列、お祓いを受けたのち公民館まで行列。その後、青壮年たちが唄に併せて一斉に飛び上がったり、床板を踏みつける「おたしより」や「杵受け」などを経て、夜8時頃からクライマックスの「米搗き」を迎える。玄関に約50人の若衆が次つぎと到着すると、会場は賑やかな歓声に包まれる。
 神主のお祓いあと、まずは子どもたちによる米搗き。大人たちは杵を着く子どもたちの動きに合わせて一斉に米搗き唄を歌うのだ。
「今かつお米は 百姓の涙」「仇になさんな 穢れちゃならん 神に供える初穂米」
 子どもたちの部が終わると、今度は総勢50人の若衆が、杵を振るう者と囃子を入れる者に別れて動き始める。
 ついた米を一旦引き揚げると、今度は力自慢による臼の持ち上げ芸が披露され、とれたお米をいかに喜んでいるかを表現して会場を湧かすのである。
 表児の米は、もともとは十郷用水を使う全域で行われたらしいが、今では北横地の氏子間で守り伝えられているだけだ。保存会長の中島さんは
「やる人間がおらんようになっては大変やから、今のうちから子どもたちに伝授しておくんです。今、覚えておけば彼らが大人になっても伝統芸能として守っていけますからね」
と、地域が一体となって守り続ける意義を強調した。



 一方、丸岡町長畝(のうね)地区では、同じ9月14、15の両日に長畝八幡神社の秋季祭として「日向神楽(ひゅうがかぐら)」(県指定無形文化財)が行われる。
 これは、1965年、丸岡藩主有馬清純公が、日向の国(現在の宮崎県)から丸岡に転封されたときに持ち込んだもので、延岡から日向神楽の舞人を同伴し、城下の諸社に神楽を奉納させたことに由来している。
 明治15年に一切の道具とともに長畝の有志に引き継がれ、八幡神社の秋の例祭として神霊をお慰めするとともに、今では五穀豊穣を祈願するお祭りとして親しまれている。
 神楽は全部で23種類あり、「大蛇退治舞い」「天照大神神楽」「戸隠大神舞」など古事記の神話などが筋書きになっているところから、岩戸神楽とも呼ばれている。
 一人舞い、二人舞い、三人舞いなどがあるが、舞人は村の長男から選ばれる。日向神楽保存会会長を務める山田一男さんは、なんと90歳の今も現役だ。
「毎年、神楽が近づくと体が元気になる。家では親子三代、」
 神楽を舞いながら一緒に楽しんでいる。神楽になると県外の大学に通う孫が帰ってくるし、家も地区もにぎやかになっての。神楽をするのが長生きの秘訣みたいなもんやでの、ハハハ」
 「表児の米」そして「日向神楽」。姿形は違っても、五穀豊穣を祈願する人びとの感謝の表現であることに変わりはない。
 豊かな水と実りの大地に感謝する。丸岡町には、いまなおそうした風土が時を越えて根づいている。しかも特筆すべきは、その伝統が親から子へ、子から孫へというように、家族の強い絆となって受け継がれていることだといえよう。




WHO-DOバックナンバー

| 戻る | 2003 Winter |
| 2002 Autumn | 2002 Spring | 2000 Winter | 2000 Summer&Spring |
| 1998 Autumn | 1997 Autumn | 1996 Autumn | 1995 Autumn |